2021年5月2日日曜日

馬頭観世音

 やさしさがあった時代

先月の某日、安中市内の中山道を中心とする道路などを歩きました。

そのとき、下野尻にある正龍寺で、大正12年に建立された馬頭観世音に出会いました。

私が生まれたころ、村内には2頭の馬が飼われていて、農耕や山からの木の伐り出しで使われていました。
しかし、馬車などはなくなっていて、物資輸送の主体は、トラックなどに変わっていました。
この馬頭観世音の裏面には、大正12年に安中運送業組合が建立したと刻まれています。
陸上輸送において、馬が使用されていた時代、こういった石碑を建立して、病気などで死んだ馬を供養したものでした。
よく人馬一体ということばを耳にしますが、江戸時代において、馬が農耕や輸送で欠かせなかった時代、人間と馬は同じ家のなかで生活をしていました。
群馬県には、曲り家といって、ひとが暮らす家のなかで、馬が一緒に暮らせる構造の家もありました。
よく訓練された馬は、馬子が手綱を引っ張らなくても、目的地に歩いていったそうです。
私が子どもであったとき、父がこんな話をしたことを覚えています。
父は、馬が利口であること、親子の情愛が深いものであることを私に話したあと、「お馬の親子」という童謡は、馬を飼っていた者にはよくわかる内容だ、というものでした。
私が生まれる前、わが家に馬がいたとのことで、仔馬を売ることになったのだそうです。
馬を飼っていたという場所の柱には、〝ませんぼう〟という馬小屋の入口にある棒を挟む穴が刻まれていました。
その仔馬を引き取りにくるという日の朝、母馬は仔馬と離れ離れになることを察し、仔馬のそばから離れようとしなかったそうです。
父が母馬をなんとか連れ出して、その間にほかのひとが仔馬を連れていくことにしたそうですが、仔馬が小屋から飛び出し、母馬を追いかけてきて、母馬は父が持つ手綱を力いっぱいふりほどいて、仔馬のほうに走っていったそうです。
父は、「お馬の親子」の歌を聴くと、このときのことを思い出すと言って、
 馬を飼ったひとでなければわからないが、
  馬は実に利口で、
   親子の情愛の深い生き物だよ
と、よく話していたものでした。
ここで供養されている馬は、物資などの輸送で働いた馬であり、まさに人馬一体となって、ひとと馬がともに生きてきたのでしょう。
この馬頭観世音は、お世話になった馬たちに対して、ひとびとが感謝を表しているものといえるでしょう。
苦しいとき、つらいとき、ともに苦労してきた馬たちに対して、ひとびとの感謝とやさしさ、自分たちのために働いてくれた動物への思いやりを感じさせてくれる馬頭観世音です。

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