2021年5月6日木曜日

太子堂塚古墳・芭蕉句碑

 コンモリ散歩:富岡市一ノ宮の巻

太子堂塚古墳は、富岡市内で最大規模の古墳(↓)だとのことで、これが本来の姿で残っていたとすれば、とても見事なものであったと思われます。

太子堂塚古墳へ行くには、つぎの地図を参考にしてください。
上信電鉄の一ノ宮駅で下車し、徒歩で数分といった場所に位置しています。
この古墳は、芭蕉の句碑があることでも有名です。
上の画像の向かって左が芭蕉句碑で、右は雲裡房句碑です。
案内看板にある内容と重複しますが、
 この芭蕉句碑は、群馬県に所在する芭蕉句碑のなかで、義仲寺発刊の寛延四年版(1751年)の「諸国翁墳録」に登録された県内第1号の句碑といわれています。
 『芭蕉翁 花の蔭 諷(うたい)に似たる 旅寝かな』が、句碑に刻まれています。
 雲裡房の句碑は、芭蕉の句碑を当地に造立するために中心となった同人の尽力を顕彰するために、高橋道斎らが宝暦12年(1762年)に造立したものだそうです。
 高橋道斎については、多胡碑の価値を世に広めた人物としても有名ですが、俳句の世界でも活躍していた人物です。
太子堂塚古墳の上から周囲を見渡すと、古墳がつくられた時代は、いまよりも見晴らしがよい場所であったと思われます。
古墳の頂上部で、土器片を見つけました。
まわりを見渡すと、あちこちに土器片らしいものが見えています。
いまの状況を考えるとき、密を避けての身近な場所にある文化財めぐりは、とてもよいことかもしれません。
コンモリ散歩は、
歩いて、登って、下って、景色を眺めて、
郷土の歴史に思いをはせる
もので、いまの時代においては、とくに最適なものではないかと私は考えています。

2021年5月2日日曜日

馬頭観世音

 やさしさがあった時代

先月の某日、安中市内の中山道を中心とする道路などを歩きました。

そのとき、下野尻にある正龍寺で、大正12年に建立された馬頭観世音に出会いました。

私が生まれたころ、村内には2頭の馬が飼われていて、農耕や山からの木の伐り出しで使われていました。
しかし、馬車などはなくなっていて、物資輸送の主体は、トラックなどに変わっていました。
この馬頭観世音の裏面には、大正12年に安中運送業組合が建立したと刻まれています。
陸上輸送において、馬が使用されていた時代、こういった石碑を建立して、病気などで死んだ馬を供養したものでした。
よく人馬一体ということばを耳にしますが、江戸時代において、馬が農耕や輸送で欠かせなかった時代、人間と馬は同じ家のなかで生活をしていました。
群馬県には、曲り家といって、ひとが暮らす家のなかで、馬が一緒に暮らせる構造の家もありました。
よく訓練された馬は、馬子が手綱を引っ張らなくても、目的地に歩いていったそうです。
私が子どもであったとき、父がこんな話をしたことを覚えています。
父は、馬が利口であること、親子の情愛が深いものであることを私に話したあと、「お馬の親子」という童謡は、馬を飼っていた者にはよくわかる内容だ、というものでした。
私が生まれる前、わが家に馬がいたとのことで、仔馬を売ることになったのだそうです。
馬を飼っていたという場所の柱には、〝ませんぼう〟という馬小屋の入口にある棒を挟む穴が刻まれていました。
その仔馬を引き取りにくるという日の朝、母馬は仔馬と離れ離れになることを察し、仔馬のそばから離れようとしなかったそうです。
父が母馬をなんとか連れ出して、その間にほかのひとが仔馬を連れていくことにしたそうですが、仔馬が小屋から飛び出し、母馬を追いかけてきて、母馬は父が持つ手綱を力いっぱいふりほどいて、仔馬のほうに走っていったそうです。
父は、「お馬の親子」の歌を聴くと、このときのことを思い出すと言って、
 馬を飼ったひとでなければわからないが、
  馬は実に利口で、
   親子の情愛の深い生き物だよ
と、よく話していたものでした。
ここで供養されている馬は、物資などの輸送で働いた馬であり、まさに人馬一体となって、ひとと馬がともに生きてきたのでしょう。
この馬頭観世音は、お世話になった馬たちに対して、ひとびとが感謝を表しているものといえるでしょう。
苦しいとき、つらいとき、ともに苦労してきた馬たちに対して、ひとびとの感謝とやさしさ、自分たちのために働いてくれた動物への思いやりを感じさせてくれる馬頭観世音です。